神は、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と思慮分別の霊を
わたしたちにくださったのです。
(新約聖書 テモテへの手紙二1:7)
わたしは最近、その心にとまる祈りの言葉に出会いました。こういう言葉です。「神さま、わたしたちが、『おくびょうの霊』にとらわれないようにしてください」。これまで、あまり聞いたことのない祈りの言葉でした。そして、それだけに、はっとさせられました。そして改めて気付かされました。「おくびょう」というのは罪なのだ、と。
わたし自身は、とても「おくびょうな」性格です。牧師という仕事をしていますけれども、人前に立つのは、ものすごく苦手、すぐに心臓が、ドキドキ、バクバクしてしまいます。それは、直さなければならない、と言われているのでしょう。けれども、それならば、「おくびょうな」性格の者だけが、この言葉を聞けばいいのでしょうか。
わたしは、それでは済まないと思います。「おくびょう」とは、自分の殻に閉じこもったままでいるところに現れる現象です。殻の内側に、閉じこもっていれば安心、安全、最高の居心地、そこから出ることは大変だし、面倒くさい、出て行きたくない。他者との関わりを持ちたくないのです。
しかし、これは、自分にこだわり、自分を正当化する、自分だけが正しいと思う心につながってきます。他人のことなど、どうでも良い、そのような心につながってきます。誰もが、この「おくびょうの霊」と無関係ではありえないのです。そしてまた、わたしたちの社会が病んでいるのも、社会全体が、この「おくびょうの霊」に支配されてしまっているからではないでしょうか。
この聖書の言葉を残した使徒パウロは、この「おくびょう」という言葉を、こういう文脈においています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」「おくびょうの霊」と対照されているのは、力と、愛と、思慮分別の霊です。自分の殻を打ち破る「力」と、自分以外の他者との関わりにおいて不可欠な、他を思いやる「愛」、そして、他者との関わりを保つために相手を正当に評価する「思慮分別」、大事なことは、それを、自分で頑張って獲得せよ、というのでなく、すでに神がわたしたちにくださった、と言っていることです。
わたしたちには、もうすでに、神からおくびょうと対立し、おくびょうに打ち勝つ賜物が与えられています。それがイエス・キリストというお方です。この方の命、この方の霊です。主イエスが、十字架で死ぬべきわたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって、この上ない愛を示してくださいました。十字架に付けられて、そして甦られ、天に昇られ、代わりに霊を注いでくださった。わたしたちがもう、自分の殻に閉じこもって、おくびょうの霊にとらわれる事のないように、主イエスは、霊として、いつもわたしたちのそば近くに、いつも共にいてくださることになったのです。わたしたちのおくびょうから来る自分という殻を、砕いてくださったのです。
クリスマスは、わたしたちがもう「おくびょうの霊」から解き放たれていることを確認する時です。
日本基督教団 駿府教会
瀬谷 寛