2014年12月22日月曜日
★瀬谷寛牧師による「クリスマスのご案内」
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた、わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから」(詩編139:16)
生きるということは空しいことなのではないか、そのように問う人がいます。大きな活躍をし、それなりの生きがいをつかんで歩んだ生涯。苦しんで、もがいて、 あるいは愛して、喜んで、悲しんで歌った日々。人は誰しも、そのような日々を持っています。しかし結局は、どんな人間であっても、病にかかり、弱り、動け なくなり、そしてやがて死んでいく時がきます。どんなに華やいだ、また幸福な歩みをたどった人であったとしても、です。人間はやがては必ず消えて行く、そのような存在です。消えるためにあくせく生きている存在です。人間、死ねばそこで終わり、それですべてが終わりです。
もちろん、自分が消えてなくなったとしても、愛する者の胸の中に刻まれ、残る、ということはあるでしょう。けれども、その記憶がいつまでも続くというわけではない、その愛する者ですら一人もいなくなる時が来るのです。そのような時、自分を覚えていてくれる者がまだどこかにいるか、そう考えると、生きるという ことは本当に悲しく、空しく、寂しい気がします。
しかし、神さまの記憶の中に生きる者はそうではないのです。はかり知ることも出来ないほど広く、大きな神の支配は、このちっぽけなわたしの存在にまで及び、神さまが目に留め、その記憶にとどめてくださっている、というのです。
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた、わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから」。一人の詩人の、神さまに対する信仰の告白の言葉です。この地上で、誰も自分のことを知ることのなくなる、その時にわたしたちの存在は空しく消え去り、意味のないものとなる、 というわけではないのです。
わたしの限られた命が、その誕生の日から、いえ、それよりもずっと前から、今日に至るまで、神さまの永遠の記憶の中に覚えられている、神さまだけが持っておられる書、命の書の中に、このわたしのこれまでの歩みのすべてが記録されている、といいます。この限られた存在のわたしが、神さまとの交わりのうちに入れられている、というのです。人間は、どこにあっても、決して孤独ではない、たとえ病に 伏せる中でも、死の中にあっても。「わたしはなお、あなたの中にいる」。一度聞いたら忘れられないみ言葉です。神さまの中に、このちっぽけなわたしがいる。この小さなわたしの存在が神さまの中に置かれ、神さまの中に見出すことが出来る、決して孤独に打ちひしがれることはないのです。神さまが、自分を最も 大切な存在として、大切な仕方で覚えてくださっているのです。ここに、わたしたちの人生が無駄にならない、空しくならない根拠があります。
わたしたちを造り出し、命を与え、贖ってくださった神の命の中にわたしたちは受け入れられています。イエス・キリストという方がそれを示してくださいまし た。今、クリスマスが近づいて来ています。イエス・キリストという方は、わたしたちの存在が、わたしたちの命が、本当は神に覚えられている、そのことを はっきりと示すために来てくださった方です。そのイエス・キリストのみ手の中に、そしてそのイエス・キリストの父なる神の中にわたしはいるのです。こんなに幸いなことがあるでしょうか。
このクリスマス、その幸いを受け取るために、教会で過ごしてみませんか?
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