駿府教会の礼拝堂が語ること

はじめに


 建物は言葉を語ります。この度、神がわたしたちに建築をゆだねられた教会堂、特にその礼拝堂がどのような言葉を語るのか、考えてみましたので、それをご紹介します。

1 風変わりな外観


 近代都市の街中の空間に、いきなり森の巨木をくりぬいたかのような木造の建物が建ちました。都市の風景と自然の風景のコントラストが、人々の目に現れます。壁には凹凸、窓が一切ないただ木だけの建物のように見えます。ある人には興味深く映り、ある人には異様に映るかもしれません。いずれにしても人が「これは一体何だろう」と驚きのうちに眼に留め、そばに来て立ち止まれば一つの目的を達します。人が、神を拝む場所に眼を留める、すなわち人が神に立ち返る第一歩となります。

2 窓のない建物=上からの光


 おそらく、わたしたち駿府教会の新しい礼拝堂が完成し、その中に足を踏み入れた時、最も印象的に目に映るのは、光ではないかと思います。そこには、天井にガラス窓(トップライト)がついています。けれども横の壁には一切、窓はつきません。つまり、太陽の光はただ上から差し込んでくるだけで、横からは光が入って来ないのです。

 それは、わたしたちの教会の成立根拠は、ただ上から与えられる、ということです。わたしたちの教会の群れの始まりは、ただ天からの、すなわち神からの一方的な選びによります。人間的な、この世的な意図、計画が、わたしたちの教会の交わりの始まりにあるのでは全くないのです。そのことを最初に指摘したいと思います。

3 座席の配置


 次に特徴的なのは、座席の配置ではないかと思います。いわゆる講壇と呼ばれる場所を、正面と、左右から取り囲む、「集中方式」と呼ばれるものです。この座席の配置の意味は、神の言葉に向かって、文字通り「集中する」ということです。それは同時に、礼拝堂のどこかに、祭壇のような特別に重んじられる聖なる空間があるわけではない、ということでもあります。特別に重んじられる、ということでいうならば、会衆全体が、礼拝堂全体が重んじられる聖なる存在だ、と考えます。

 教会とは、群れ・共同体としての神の民のことであるという理解からすると、この集中方式は会衆が積極的に位置づけられます。会衆全体が、その礼拝に積極的に参与せざるを得なくます。み言葉を取り次ぐ牧師も神の民の一員として、その民のただなかで語るのです(礼拝=み言葉を受ける、という受動的姿勢がただされる)。

 それがいいと感じるのは、み言葉は当然聞こえてくるのですが、それと同時に、どうしても同じ教会に結び合わされている仲間の姿が目に入って来る、ということです。神の言葉をただ一人で聴くのではなく、常に、同じ言葉を聴く仲間を意識しながら、礼拝をささげることができる、これはとても幸いなことだと思います。   

4 洗礼盤・聖餐卓・説教壇の位置


 新しい教会堂では、確かに三方で囲まれた会衆席の真ん中に洗礼盤・聖餐卓・説教壇をおきます。当然、わたしたちの教会の姿勢を表します。つまり、説教と聖礼典を重んじる、ということです。宗教改革者がいうように、それを重んじることなしに、教会ではありえません。

 わたしたちが考えたのは、一つの視線の中に、わたしたちの大切にすべきものが納まる、ということです。洗礼盤による洗礼・聖餐卓による聖餐・説教壇による洗礼、これら三つで一つのもの(イエス・キリスト)を指し示します。それから大事にしたのは、その配列です。わたしたちの教会では、洗礼受けた者が聖餐の食卓に与ります。洗礼を通らなければ聖餐の食卓につくことはできないのです(「洗礼から聖餐へ」)。

5 十字架なし


 建築委員会で、礼拝堂に十字架をおくべきかどうか、議論をしました。結論的には、現在と同じように、置くのをやめました。イエス・キリストの十字架のみ業は、十字架を置く、ということによって表されるべきではなく、説教と聖礼典によってこそ、表されるべきものだからです。ついでのことですが、教会堂の建物の正面入り口上部には十字架が掲げられます。それは、その建物が教会であることを周りに知らせるためのものです。

6 自然のもの(木)を用いている


 少し前の時代には、礼拝堂に限らずあらゆる建物が、無機質な、殺風景な感じでした(モダニズム建築)。まして、特にプロテスタント教会の礼拝堂は、ごてごてと飾り立てるものの何もない、すっきりした空間、禁欲的な空間、専門的な言葉で言えば神のみが満たす空虚な空間が求められていました。

 今度の新しい駿府教会の礼拝堂は、そういう風潮とは少し違う、木が美しく組まれ、飾り立てられて礼拝に集中できず、礼拝堂にふさわしくないような印象を受けるかもしれません。しかし、この教会は設計の西沢大良建築士が、礼拝堂にはできるだけ工業製品を使いたくない、なるべく自然のものを使いたい、それによって光と音の印象的な建物を作りたい、とこだわった結果です。ではそのことの意味するところは何でしょうか。

 一つは、自然を礼拝堂に取り入れる、ということは、神の創造された被造物も、わたしたちと一緒に礼拝をささげる場に置く、ということです。神礼拝の行為が、人間の独占物ではなくして、自然の入る余地が作られた、と捉えることができます。

 もう一つは、木が組まれる壁面でも、空虚さは失われない(だろう)ということです。むしろ、自然を生の形で取り入れることによって、何もないものを表現している、といえます。自然に近い、ありのままの地上世界の姿を現しています。それ以外のものが何もない、ということによって、世界の空虚さ、世界もまた神によって満たされなければならない、ということを表現しているといえます。しかも、今度の建物は、構造を見せています。本当に、壁には木しかない、陰に隠すものを何ももたない、ということがその空間の空虚さを際立たせています。

 さらに、第三のこととして、その素材に注目をしてみたいと思います。木、つまり十字架と同じ木です。確かに、礼拝堂に十字架を直接は掲げませんけれども、礼拝者を取り囲む空間、目に入るほとんどすべてのところに、十字架と同じ素材が用いられているのです。礼拝の空間が、まさに文字通り十字架の恵みに囲まれている、そんな風に受け止めることもできるのではないかと思います。

7 壁の模様


 この礼拝堂の壁には、一様でない、単純でない模様ができています。木という自然素材を使いながら、その配列のみによって表現がなされています。場所によって、建物を支える柱の見え方が異なります。そのことによって礼拝堂全体が、大きな波に囲まれているようにも見えます。この礼拝堂には動きが表現されている、ということです。この場所で行われる事柄、すなわち神の言葉が語られ、それを聞く者たちが集められる礼拝の出来事は、建物全体を、そしてこの地上の世界を激しく揺り動かします。

 またそれは、神が聖霊(息)を吹きかけて命を与えられた、生きた教会の姿を現してもいるかのようです。神が天地創造の際にお造りになった最初の人間は、ただ作られたままでは生きたものにはなりませんでした。そこに、神が命の息を吹きいれてくださって、初めて生きたものとなったのです。わたしたちのこの礼拝堂にも、神の命の息が吹き入れられ、生きるものとされています。

8 高い天井


 このようにして、ここまで、わたしたちの礼拝堂が、神が与えてくださる天的なものが表されている空間であり、まさに、天へとつながる道となるのにふさわしい場所のように考えてきましたが、わたしたちの新しい礼拝堂のもう一つの特徴は、天井が比較的高い(7.5m)、ということです。つまり、それでもなお、天ははるか遠くに、仰ぐべきところとしてある、ということです。これほどまでに、天的なものを表していながら、そして、この世に存在するものの中で最も天に近い存在であるはずの礼拝堂でありながら、しかし、なお天との距離が離れているというのは、考えさせられます。神は神であり、人はどこまで行っても人である、という20世紀の神学者バルトの弁証法神学(『ローマ書』)によって明らかにされた人間の罪の現実を見せられているようです。けれども、そこに主イエスがおいでになって、天とわたしたち人間をつないでくださった、礼拝において明らかにされるものは、そのような奇跡だ、ということをこの礼拝堂は表現しているように思えてなりません。

駿府教会 牧師 瀬谷 寛

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