クリスマスイヴ 讃美の夕べ 2015

 

★コンサートのアルバム

★概要

  • 日時:2015年12月24日 18:30~20:30
  • 開催場所:当教会礼拝堂

★プログラム第1部:讃美とメッセージ(礼拝)

  • 説教:「真理が現れた光」 瀬谷 寛 牧師
  • 聖書ヨハネによる福音書 第1章14~18節
  • 備考:クリスマスソングをたくさん歌います

★プログラム第2部:パイプオルガンコンサート

  • 演奏:福井 香(静岡英和女学院中高オルガニスト)

    静岡英和女学院中学校・高等学校を卒業。フェリス女学院大学音楽学部演奏学科パイプオルガン専攻卒業。静岡英和女学院高等学校在学中に礼拝奏楽者としてオルガンを始める。

    これまでにオルガンを、菊池みち子、宮本とも子、武久源造、三浦はつみ、飯沼彩の各氏に師事。クラヴィコードを宮本とも子氏、チェンバロを武久源造氏に師事。また、鍵盤楽器伴奏法を桐山建志氏に、通奏低音と即興演奏を宇内千晴氏に師事。

    音楽館AOIにてバレエ団芸術座の舞台に「メンデルスゾーン:真夏の夜の夢序曲」をオルガン伴奏用にアレンジ、演奏し好評を得る。今年、富士フィル創立30周年記念コンサート「マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》」に出演。ハラルド・フォーゲル主催の北ドイツオルガンアカデミーに参加し、歴史的楽器にて奏法やレジストレーション等を学ぶ。

    日本オルガニスト協会会員。現在、静岡英和女学院中学校・高等学校音楽科常勤講師。
  • 曲目
    • 笛時計のための5つの小品 WoO L.v.ベートーヴェン(1770~1827)
    • 「11のコラール前奏曲」Op.122より 一輪のバラは咲きて / 讃美歌96番 J.ブラームス (1833~1897)
    • 世の成らぬ先に(Of the Father’s love begotten) W.ヘルド(1914~?)
    • シャコンヌ ホ短調 BuxWV160 D.ブクステフーデ(1637~1707)
    • カプリッチョ ニ短調 G.ベーム(1661~1733)
    • 「喜べ,わが魂よ」によるバリエーション G.ベーム(1661~1733)
    • 主よ、われ汝により頼む H.シャイデマン(1595~1663)
    • 暁の星いと美しきかな BuxWV223 / 讃美歌346番 D.ブクステフーデ(1637~1707) 

クリスマスのご案内2015

神は、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と思慮分別の霊を
わたしたちにくださったのです。
(新約聖書 テモテへの手紙二1:7)

わたしは最近、その心にとまる祈りの言葉に出会いました。こういう言葉です。「神さま、わたしたちが、『おくびょうの霊』にとらわれないようにしてください」。これまで、あまり聞いたことのない祈りの言葉でした。そして、それだけに、はっとさせられました。そして改めて気付かされました。「おくびょう」というのは罪なのだ、と。

わたし自身は、とても「おくびょうな」性格です。牧師という仕事をしていますけれども、人前に立つのは、ものすごく苦手、すぐに心臓が、ドキドキ、バクバクしてしまいます。それは、直さなければならない、と言われているのでしょう。けれども、それならば、「おくびょうな」性格の者だけが、この言葉を聞けばいいのでしょうか。

わたしは、それでは済まないと思います。「おくびょう」とは、自分の殻に閉じこもったままでいるところに現れる現象です。殻の内側に、閉じこもっていれば安心、安全、最高の居心地、そこから出ることは大変だし、面倒くさい、出て行きたくない。他者との関わりを持ちたくないのです。

しかし、これは、自分にこだわり、自分を正当化する、自分だけが正しいと思う心につながってきます。他人のことなど、どうでも良い、そのような心につながってきます。誰もが、この「おくびょうの霊」と無関係ではありえないのです。そしてまた、わたしたちの社会が病んでいるのも、社会全体が、この「おくびょうの霊」に支配されてしまっているからではないでしょうか。

この聖書の言葉を残した使徒パウロは、この「おくびょう」という言葉を、こういう文脈においています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」「おくびょうの霊」と対照されているのは、力と、愛と、思慮分別の霊です。自分の殻を打ち破る「力」と、自分以外の他者との関わりにおいて不可欠な、他を思いやる「愛」、そして、他者との関わりを保つために相手を正当に評価する「思慮分別」、大事なことは、それを、自分で頑張って獲得せよ、というのでなく、すでに神がわたしたちにくださった、と言っていることです。

わたしたちには、もうすでに、神からおくびょうと対立し、おくびょうに打ち勝つ賜物が与えられています。それがイエス・キリストというお方です。この方の命、この方の霊です。主イエスが、十字架で死ぬべきわたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって、この上ない愛を示してくださいました。十字架に付けられて、そして甦られ、天に昇られ、代わりに霊を注いでくださった。わたしたちがもう、自分の殻に閉じこもって、おくびょうの霊にとらわれる事のないように、主イエスは、霊として、いつもわたしたちのそば近くに、いつも共にいてくださることになったのです。わたしたちのおくびょうから来る自分という殻を、砕いてくださったのです。

クリスマスは、わたしたちがもう「おくびょうの霊」から解き放たれていることを確認する時です。

日本基督教団 駿府教会
瀬谷 寛
 

0 件のコメント:

コメントを投稿