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 与えられた命を生きていく中で、わたしたちはさまざまな困難や苦しみ、悲しみ、悩みに出会うことかあります。また、さまざまな問いの前に立だされることもあります。漠然とした、悶々とした、満たされない思いにとらわれることもあるでしょう。その時に、多くの場合、時をやリ過ごすか、別のことに心を向けるなどして、何とか克服したつもりになっているのかもしれません。

 もしも、あなたがそのような方でしたら、一度、わたしたちの駿府教会に、足を運んでみませんか。

 「教会」は教会堂という建物のことでもありますが、それよりもまことの神を知リ、唯一の救い主イエス・キリストを知ろうと集まる人間の共同体のことです。神を礼拝する集団です。互いに助け合い、親しい交わりに生さる仲間です。そのことを通して、人生の困難な問題に真の解決を見つけ、新しい力を得て歩みだす群れです。その仲問になってください。悩みの前で立ちつくす所から、神からの使命を果たす存在へ歩みだしてください。どなたでも、心から歓迎します。


クリスマス讃美の夕べ2014 礼拝説教

神様のなさることを見よう!

ルカによる福音書第2章8-20節

瀬谷 寛

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(11)

あなたがたのため、すなわち、わたしたちのために、救い主がお生まれになられました。あるところで、このような投稿記事が寄せられているのを目にしました。

38歳男性です。毎日毎日同じことの繰り返し。今日も、昨日も、一年前も、やってることは何一つ変わらない。ただ年をとっただけ。基本的に20 年前と生活は変わらない。起きて、仕事して、帰って、風呂入って、食って寝る。

このままだとあと20 年、定年まで同じこと繰り返すような気がする。

何のために生きているんだろう?

何の進歩も成長もない。特別つらくもないけど、特別楽しいこともない。ぜいたくな悩みなのは分かってます。世の中には、仕事ができない人も、食べ物がない人も、病気な人も、明日をも生きられない人もいます。

資格をとれば、成長の証として、無駄な日々にならないと思って、いくつか合格したのですが、結局は3ヶ月もすれば、使ってない知識は忘れます。これじゃ資格取得の勉強もあまり意味がないような気がしてきました。

ただただ、毎日が同じことの繰り返し。何のために生きているのだろう。人生が面白くない。むなしい。

毎日毎日同じことの繰り返し。そして結局は、死んでしまう。死ねば全て終わり。一体、なんのために生きているのだろうか。この人は問うています。

面白かったのは、というのは不適切な言い方かもしれませんが、大変興味深かったのは、この投稿に答えた人のことばがあります。だいたい、同じような答えであったので、興味深く、また同時に驚きました。


そんな馬鹿なことを考えなさるな。人生には、意味や目的などないのだ。何のために生きるのか、そんなこと、考えても、ろくなことはない。答えなど、ではしない。少し、忙しい生活でも送ったらいい。そうすればそんなことを考える余裕など なくなるから。

一人ではありません。何人もの人が、言葉の表現は少し違っていますけれども、同じような回答をしていたのです。けれどもこれは、回答、といえるでしょうか。解決した、満足した、そう言えるでしょうか。わたしに言わせれば、解決でもなんでもありません。ただ、誤魔化せ、と言っているようにしか見えませんでした。

救い主がお生まれになられました。救い主が「わたしたちのために」お生まれになられました。この救い主、イエス・キリストがお生まれくださったことによって、わたしたちの人生は、退屈でも暇でも、空しくもなんでもない、死んだらそれで終わり、というのでは決してないものとなりました。わたしたちの人生を、そのようなものに変えられるのが、あのイエス・キリスト、救い主の誕生の出来事です。

イエス・キリスト、神の御子、神の本当の子、独り子が世に来て、誕生してくださったことによって、一体何が明らかになったのでしょうか。それは、わたしたちの人生は、神が、その初めから、見ていてくださっておられる、ということです。

旧約聖書詩編第139編にこういう言葉があります。

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」(16)

胎児であったわたしを、あなた、すなわち神さまは見ていてくださっておられた。それはもちろん、わたしたちが胎児であった時ばかりのことだけではありません。そこから始まって、いつも、そしていつまでも、神様がわたしたちを見ていてくださっている。この方が、どこまでも共にいてくださる。何百年経とうが、何千年経とうが、そのことは変わらない。なぜなら、わたしという存在が、もはやわたし一人ではなく、わたしが一人で立っているのではなく、神の中に、わたしという存在が置かれていてくださるからです。そのようにして神が、わたしたちを最初から、どこまでも愛してくださっておられる。

どんなに空しく見える人生、またどんなに空しく見えるこの世界も。神ご自身の中に、おかれています。このわたしも、あの人も、そして、この世界のすべてが神の中に置かれている。神は世界を、ご自分のものにしておられます。それはすなわち、決してよい世界とは言い切れないこの世界も、いい人間であるとはいえないこのわたしも、このような状態でありながらなお、決して神から捨てられてはいない、ということを意味します。わたしたちの生活、わたしたちの一日一日も、神が見守ってくださらない一日はないのです。

これが、わたしたちのために救い主が生まれた、救い主誕生の意味です。わたしたちは決して捨てられてはいない。神様に、決して捨てられてはいない。もしも神がわたしたちを、そしてこの世界をお見捨てになられたとしたならば、イエス・キリストが、この世には遣わされることはなかったでありましょう。これこそが、わたしたちにとって、最も喜ばしい、うれしい知らせであります。

この知らせを最初に聞いた者達の中に、羊飼いがいました。もしかすると、いや、きっと、この羊飼いも空しい人生を生きていたのではないか。いや、正確には、空しいと思ってしまう人生を生きていたのではないか。

羊飼いという職業は、当時の社会の最も底辺、一番下に位置する職業であった、と言われます。誰もやりたがらないのです。自分たちも本当はしたいと思っていなかったかもしれない。その仕事に、しかし、従事しなければならない。毎日家畜を自ら飼っているようでありながら、振り回されて逆に、家畜に飼われているような毎日を送っていたのかもしれません。その羊飼いに、天使は告げたのです。

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、『あなたがたのために』救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10、11)

この喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、どうしたでしょう。

『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」(15)

あの喜びの知らせを告げてくれた天使は、この羊飼いたちに、「さあ、ベツレヘムに行きなさい」そのように命じたのではありませんでした。そこに、ベツレヘムに行けば、救い主のお生まれになる、そのしるしを見ることができるであろう、そのことを告げただけなのです。それにもかかわらず、彼らの心は、救い主を見ようとの熱望が燃え上がってきました。

この空しい、と思えるようなこの生活、この人生を、変えていただくことのできる方がおられる、変えていただくことのできる方が、やってきてくださった。そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。「さあ、ベツレヘムに行こう」。

ここでお生まれになられたイエス・キリストという方は、やがて、愛に生き、その愛の極みとも言える十字架の死を、死んでくださいました。それこそ、「わたしたちのため」、生きること、人生が空しい、とそのようにしか感じることのできない者たちを、心から愛して、愛して、愛し抜いて、十字架の死の道を自らお歩きくださった。イエス・キリストはまさにその十字架の死を死んでくださるために、生まれてきてくださったのです。

この、喜びの知らせ、これ以上ない喜びの知らせを、わたしたちも今聴いています。ここにいるわたしたちも、あの羊飼いです。このわたしの人生の、毎日を、愛を持って満たしてくださる、あの方、わたしたちを愛し、ご自分のものとし、ご自分の存在の中においてくださる神の御子、イエス・キリストのもとに馳せ参じ、そのなさってくださった出来事を見る、わたしたちでありたい。主イエス・キリストのその言葉を、その業を、聴き続けるわたしたちでありたいのです。

(2014年12月24日)

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